アンリ カルティエ=ブレッソンのカメラとフィルム

カルティエ=ブレッソンがどのようなカメラを使い、どんなフィルムを常用していたのか、と言う事は興味ある問題である。カメラについては“ライカ”の愛好家であることはあまりにも有名でいまさら改めて調べるまでのことも無いかに見える。“ライカは私の目の延長です。このカメラがなかったら写真はやらなかったでしょう。”(NHKカルチャースペシャル“写真と生きた20世紀 カルティエ=ブレッソン91歳の証言”2000年3月放送)と言っているように、マルティン
ムンカッチの波に向かって走る少年たちの写真に衝撃を受けて本格的に写真を撮り始めた彼は、1932年以来ずっとライカのレンジファインダーを愛用しつづけた。ただ、使用していたフィルムについてはどこにも記録されていないし、誰も語っていない…少なくとも僕の知る限りでは。
ここに興味深い写真集がある。ディビット ダグラス ダンカンが撮ったアンリ カルティエ=ブレッソンの写真集“Faceless”である。2000年5月25日、パリのピカソ美術館の前のカフェでカルティエ=ブレッソンを撮った1本のフィルムをそのまま写真集にしたものだ。往年の戦場カメラマンの写真集にしてはあまりにも安易であまりにお粗末とも言いたくなるような写真集ではあるが、ご愛嬌と思えばいいのか。興味をそそられるのは、ここにその時のフィルムのベタ焼と92歳のカルティエ=ブレッソンがカメラとともに写っていることである。表紙の裏側に次のような記述がある。
DDDはカメラもフィルムも持たずにやって来た。彼はカフェのテーブルの上の彼の妻の小型のズームレンズのカメラを取ると、HC=Bからフィルムを1本譲り受けた。二人はことばを交わすことなく、彼は5分間写真を撮りつづけた。
パリの事情はおそらく日本と変わらず、その辺の売店で白黒フィルムをくれ、と言っても、多分店員は戸惑うだけだろうから、カルティエ=ブレッソンは僕同様にフィルムを買い置きしていたに違いない。だからこの時デイビット
ダグラス ダンカンに渡したフィルムが2000年当時の彼の常用フィルムと思ってよいだろう。フィルムは“5053TMY”の刻印からコダックのT-MAX400である。でも、多分この写真はISO400では撮られていないのではないかと思う。ISO100か或いはそれ以下に減感されて撮られたものではないだろうか。標準露出で標準現像されたフィルムであるなら、ベタ焼のフィルムナンバー等の刻印がもっとくっきり出るはずだし、5月の昼下がりの日差しの中で撮られたこれらの写真の微妙なボケ具合やコントラストの無さからそう思うのだが。ディビット
ダグラス ダンカンは意図的にフィルムの感度を下げた設定をしたか、あるいは、彼の奥さんのカメラは、彼女の常用フィルムの感度に設定されていて、ディビット
ダグラス ダンカンはそれに気付かずにカルティエ=ブレッソンから譲り受けたフィルムを装填してそのまま撮ってしまったのではないだろうか。
ついでながら、カルティエ=ブレッソンが彼の常用フィルムの感度をISO100程度に設定していたのではないかと思わせる事例が例のNHKの特集番組の中にある。僕はこの番組の録画をダビングしたものをある人から譲り受けたのだが、この番組が放映されたのは2000年の3月のようだ。取材は映っている人たちの服装からみて1999年の初夏の頃或いは夏の終わり頃と思われる。彼はこう言っている。
”今はライカを一台だけ持っています。最新のごく小型のモデルです。私が嫌いなのは自動カメラです。光は自分で推量しなければならない。料理人みたいなものです。お菓子に入れる塩の量を決めるのに秤を使ったりはしないでしょう。たとえば今この場所で、その照明が邪魔なのはすぐわかります。1/30秒で絞りは2.8でしょう。”
わりと明るい昼間の室内でのこの露出は、彼の常用フィルムの感度をISO100くらいに設定していると見てよさそうである。しかし、もっと好奇心をそそられるのは、先の写真集で彼が持っているカメラである。レンズに“ズマリット 1:2.4F40mm”の刻印のあるこのカメラは、どう見てもライカ製の全自動のコンパクトカメラとしか思えない。巻き上げレバーが無いし、ピント合わせのリングもシャッターダイヤルも絞りリングも見当たらないし、大体ファインダーの窓が一つしかない。
とすると、彼の言っていることは矛盾しているかのように見える。しかし、70年代から絵画に傾倒していった彼が、90歳を越えて、補助機材として40mmレンズのついたコンパクトカメラを持ち歩いたとしても不思議ではない。絵画の補助用なら、50mmレンズ゙よりも40mmレンズのほうが使い勝手がよさそうだ。そう言えば、1999年の作品として発表されている、“アルプ・ド・オート・プロバンス”の写真、草原の左側に長く影を落とした木立が並び、カルティエ=ブレッソン自身の影も一緒に写っているあの写真は、50mmレンズにしてはずいぶん広角っぽいと思っていたが、このカメラで撮ったというならば納得ができる。
ここまで書いて、もう一度写真集を見直してよく見ると、カルティエ=ブレッソンのカメラの上部右端には円形の薄いダイヤルのようなものが付いていて、その円周に沿って2列、数字らしきものが刻印されていることがわかった。何しろ、デイビット ダグラス ダンカンの奥さんのコンパクトズームカメラは解像度が悪く、今一締まった写真になっていないのだ。だから、或いはカルティエ=ブレッソンのカメラは手動で露出を設定できるのかもしれない。でも、いまさらオートフォーカス・手動露出のカメラなど作るメーカーがあるのだろうか?或いはライカ社が往年のライカの巨匠に敬意を表して、そんなカメラを作ったのだろうか?
どうも気になって、ライカのホームページで調べてみると、カルティエ=ブレッソンのカメラは、現行(2005年11月)のライカ製コンパクトカメラ、“ライカミニルックス”の前身か、或いは一世代前のカメラのようで、現行のモデルの写真から推測すると、露出についてはプログラミング自動露出と、絞り優先自動露出とが切り替えられ、また手動で露出補正ができるようになっていて、ピントについてはオートフォーカスと手動による距離設定とが切り替えられるようになっているようだ。さすがは“腐ってもライカ”であると思う。
追記
スカイドア社から2001年に発行されている、楠本亜紀さんの“逃げ去るイメージ アンリ・カルティエ=ブレッソン”の中に興味深い記述がある。1955年朝日新聞社から発行された“木村伊兵衛「ヨーロッパの印象―木村伊兵衛第2回外遊写真」”からの引用文とある。本来なら原典に当たるのが正しいが、田舎ゆえ、たいした図書館も近くには無いので、孫引きさせていただく。
今回の旅行で一番勉強になったのは(略)パリへ来てプレッソンに一日、ドアノーには
ずっとついていたが、前に行ったときよりもみんなの写真が代わってきているのを知った
ことだ。それは第一に感光材料の点である。前に行ったときは、トライ]と]]で、それ
の現像はプロマイクロールで増感していたが、2度目に行ったときはイルフォードのHPS
、ウエストの400など速いフィルムが出来、現像液もフェニドン系のイルフォードの
ミクロフェンが出来たということが、写真を変えてきた原因と思われた。プレッソンのラ
ボラトリーに行っても、それを盛んに説明していた。今までの露出ではいけない、露出計
を800にもっていかなければならない。このフィルムとこの現像液は、露出がオーバー
になってはダメだからアンダー気味にかけなければいけない、などといっていた。それで
若い人の撮り方が大分変ってきたが、ドアノーもプレッソンも相当絞るようになってきた
のだ。今までF5.6だったのを8から11に絞るとか、長焦点レンズを使うようになった。
プレッソンは9センチの長焦点レンズを使って写すのが多い。そういう傾向が目に見えて
きた。
一字一句確認したので、誤字も含めて孫引きには間違いは無いと思う。これを読んでの印象は、…?!?*%!! 現代日本語で書き換えると、“ってゆうかぁー。ゎかぁんなーい!”、といったところか。
楠本さんは“木村伊兵衛は1955年の第1回に続く1956年の第2回外遊報告で、…”と、この文章を引用しているので、1955年という出版年は間違いである。コダック社のトライ-Xの発売は1954年11月だから、カルティエ=ブレッソンたちパリの写真家たちは、この新しい高感度フィルムにすぐに飛びつき、また、当時次々と発売された高感度フィルムをそれぞれ試していたらしい。でも、“]]”とは何だろう。“トライ”の前に“ダブル”があったのだろうか。これは、フィルムの近代史を調べてみないと判らない。或いは、“プラスX”を木村伊兵衛さんが“+X”と書いた原稿を、印刷屋さんが“XX”と間違えたのかも知れない。もう一つ、“HPS”も木村伊兵衛さんが“HP5”と書いたものを“HPS”と書き間違えたのではないだろうか。どっちにしろ、1955年当時のパリでは新しく発売された高感度フィルムを、PQ現像薬を使って増感するのがはやっていたらしいことがこの引用文からは伺える。
でも、カルティエ=ブレッソンが当時、常時フィルムを増感していたのかどうかについては、僕は違うと思う。彼の愛用していたレンジファインダーは一眼レフほどブレないし、風景写真以外50mmレンズしか使わない彼が高速のシャッターを切る必要もないし、彼の写真の特徴である、“灰色”の階調が増感では出にくいと思うからである。
カルティエ=ブレッソンは、夜の室内や屋外の写真も数多く撮っているが、このような時は増感していたのだろう。NHKの番組での彼の発言と、デイビット
ダグラス ダンカンに“ほらよっ”と渡した先のフィルムとから、敢えて強引に推測するなら、彼は“トライX” あるいは“HP5”のような高感度フィルムを常時は減感して使っていたのではないのだろうか。そして必要に応じて増感し、粒状性のよい“T-MAX”が発売されたときにこれに鞍替えした。こう考えるのは独断が過ぎるだろうか。
トライXはもちろん、本によると、T-MAX400も増感、減感に対しては幅広い順応性を持っている使い勝手のよいフィルムであると思う。余談になるが、僕の娘が今年イタリアへ旅行したときに、持って行ったマニュアル一眼レフが壊れ、急遽全自動のコンパクトカメラを現地で調達したことがある。フィルムは僕が手詰めした400TX(旧名トライX)だったのでカメラが感度を自動認識せずにデフォルトのISO25で数本のフィルムを撮影してしまった。フィルムを1本無駄にして、同じ条件で撮影し、現像時間を推定して事なきを得たが、400TXはISO25でも十分満足できる階調を再現してくれた。このときのベタ焼の刻印の部分がデイビット ダグラス ダンカンの写真集のそれとよく似ていた。
なお、レンズについては先の番組の中で、“いつも同じレンズを使ったのですか?”、という質問に対し、カルティエ=ブレッソンは次のように答えている。
“はい、50mmレンズです。90mmも持っていますが、これは風景用に使います。”(2005.12.07)