げんなり寿司 雛のつるし飾り 河津桜 伊豆B級グルメ 稲取 さだごろうや キンメ鯛

げんなり寿司


 マスコットキャラクター登場!! 
タイコちゃんげんなりくんです。
平成22年下田市で開催された第6回”伊豆大特産市in開国下田
みなと”で当店の”げんなり寿司”が
特産品大賞を受賞しました。
また、平成28年に制定された東伊豆町産業団体連絡会の
地域認定商品に認定されています。(認定番号:第0005号)

さだごろうやの仕出し業務は平成30年11月をもって中止(廃業)いたしました。
当店以外にもげんなり寿司の製造、販売をおこなっているお店はありますので、お試しください。

2008.06.08

げんなり寿司は、伊豆の稲取で、祝言(結婚式)や建前(上棟式)や船下ろし(進水式)、七五三、成人式などのお祝いの日に作られるお寿司です。一個がとても大きく、一個食べれば”げんなり”してしまう事からこのように呼ばれています。一般にお祝いの日に近所や親戚に配られるものは5個で一セットになっています。金目鯛で作った紅白のおぼろ、お寿司の大きさに合わせて切られた鮪の赤身のお刺身、肉厚の大きな椎茸の煮付け、玉子焼きでフルセットです。各お寿司の中心には、味付けされた千切りの人参がはさんであります。また、同じくお祝いの日の宴席で振舞われる料理に金目鯛の姿煮が欠かせません。二匹の金目鯛をまるごと煮付け、腹合わせにしてひとつの大皿に盛り付けます。

つるし飾りまつりの期間中の”さだごろうや”では少し小ぶりにしたげんなり寿司を紅白のおぼろのセットにして毎日販売しています。
東伊豆庁舎の駐車場で土、日、祝日に開催される港の朝市の農協ブースでも夏季を除き通年販売しています。また、地域のイベント会場でもお買い求めになれます。ご予約も承っております。⇒Tel.0557-95-2869

補足: "げんなり=この地方の方言。うんざりに近いが若干ニュアンスが違う。もういやになって、(疲れて、飽きて)そのことを続けられなくなった状態を指すときに使う。たとえば、今日は、朝から野良仕事ばかりででげんなりしたからもう帰ろう。といったような使い方をする。げんなり寿司の場合は、おなかがいっぱいでもう食べられないというような意味。
補足のおまけ: 上の使用例は稲取の会話らしくありません。稲取の方言での会話風に書き換えると、次のようになります。おらぁよう、今日はよう、朝っからずうーっと野良仕事ばぁっけえやってたからよう、げんなりしてまったさよう。へぇけえるべぇ。

蛇足: げんなり寿司の語源を、“げん=縁起”が成る から来ている、と解説したホームページを見たことがありますが、上のような話し方をする土地柄ですから、後からこじつけたもののような気がします。げんが成るなどと言ったしゃれた言い方はこの土地には似合いません。縁起が良い、とか悪い、と言った言い回しはもちろんこの土地にもあります。それを稲取の方言風に書くと、“そりゃぁえんぎゃあいいなあ。”とか、“よさっしぇえ(止しなさい)、えんぎゃあわりいじゃよう”、といった言い方をします。子供の頃には、運が良い、運が悪い、と混同して、“うんぎゃあいい”とか、“うんぎゃあわりい”などとも言っておりました。ですから、“げんがなる”などと言おうものなら次のような言葉が返ってきそうです。“ちょっ、しゃべろかぁ。わりゃあどこでそんな言い方ぁ習ったや?このなまいきな小僧が。”..女の子でしたら、小僧が“あま“や“あまっちょ”や“あまっこぅ”になります。“しゃべろく”は知識をひけらかすものや口ごたえをするものを揶揄する言葉です。“われ”は、同等の者、あるいは目下の者に対する呼びかけ、“君”と言ったところです。”ちょっ”については興味がおありでしたら、下の特別付録をお読みください。

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特別付録: 以上で“げんなり寿司”に関する説明は終わりです。以下は、方言の話が出たついでですので、もしあなたが雛のつるし飾りを見ようなどと思って、伊豆の稲取を訪れ、町の中を散策する機会があったときに戸惑わないように、稲取方言の入門編を解説しておきましょう。
 稲取の町を散歩していて、タオルを鉢巻にして大声で怒鳴りあっている人たちに出会ったとしても驚いてはいけません。ほとんどの場合、彼らは他愛もない普通の日常会話をしているのです。喧嘩をしているわけではありません。では、喧嘩と、普通の会話とどこで見分けるのか、それにはまず、“おめえ”と“てめえ”の違いを知る必要があります。
 昔、といっても私がまだ小学生だった昭和30年代の頃、新しく赴任された先生が、爪の先が真っ黒な、浅黒い顔をした、ただ目だけはきらきら輝いてニコニコしている子供たちから突然、“先生、おめえよう、”と話しかけられて顔面蒼白になる、という話は良くあることでした。“おめえ”は、“お前様”から来た敬語なのです。お年寄りの中には、“おめえさん”とか、“おめえさま”と、より穏やかな話し方をする方も多いです。
 稲取の人が、都会に出て行って、目上の人や初対面の人に、つい“おめえ”と呼びかけてしまいひんしゅくを買った例は枚挙にいとまがありません。
 友人や目下の者に対する呼びかけは先に上げた“われ”で、会話の中では“わりゃぁよう”、複数の場合は、“わぇえらぁ”あるいは、“ええらぁ”となります。ちなみに、“おめえ”の複数形は“おめえらぁ”です。
 では、喧嘩のときはどう呼ぶのでしょう。“てめえ”です。複数形は“てめえらぁ”です。さらに戦闘レベルが上がってくると、“うぬ”、“ぬし”と表現されることもあります。会話、といってももう喧嘩の中では、“うなぁよう”、とか“ぬしゃぁよう”、さらに変化して、“にしゃぁよう”となります。
 ですから、あなたが出会った人たちが、“おめえよう”とか、“わりゃぁよう”とか言いながら大声で怒鳴りあっていたとしても何も心配することはありません。あなたが割って入って、道を尋ねたとしても親切に大声で教えてくれるでしょう。でも、“てめえ”とか、“うなあよう”とか言う言葉が聞こえたら、足早にその場を立ち去りましょう。もし、何らかの理由で、不幸にも、あなたがその言葉で呼ばれたら、たいへん危険です。あなたは防御体制をとらなければなりません。次の瞬間、相手はあなたの胸倉につかみかかってくるかもしれません。
 ここまで読まれると、稲取の会話では、“よう”という言葉がたくさん使われていることにお気づきでしょう。“あのよう、おらぁよう、今日よう、”といった具合です。これは多分、昔、漁師さんたちが海の上で会話をするために、文節を短く区切って大声で怒鳴りあったためではないかと思うのですが、間投助詞 “ね”と100%互換性があります。先の例で言えば、“あのね、僕はね、今日ね、”という具合です。
 昭和30年代、稲取言葉の汚さがこの“よう”と “ちょっ”という言葉にある、と考えた小学校の先生方が、“よう”と“ちょっ”の撲滅大作戦を展開しました。“ちょっ”は、舌打ちではなく、実際に“ちょっ”と発音します。“ちょっ”と言って、頭を掻くのは照れ隠しの仕草、その他にも先の例であげたように人をさげすむとき、あるいは驚きを表現するとき、人に反論をするときに冒頭に付けて使います。驚きの場合は、“ちょーっ”と伸ばすことがあります。また、失望を表すときには、”ちょ〜ぉぉ”とトーンダウンします。その頃は、映画鑑賞というのが学校の行事の中に組み込まれていて、年に何回かぞろぞろと映画館まで隊列を組んで行って、映画を見せてもらうことがありました。ほとんどは文部省推薦のお墨付きがついた映画でしたが、たまにはアニメ(昔は漫画映画と言いました)もありました。八幡製鉄所が舞台になっていて、工場内の製鉄工程が何度か映るというだけで、わけの分からない純愛映画を見せられたこともあります。そんな映画の本編、あるいは予告編の中で、キスシーンなど出て来ようものならもう大変です。ガキどもはみな口々に“ちょっ、ちょっ、”と “ちょっ”を連発し、照れ隠しの意思表示=俺は恥ずかしくてこんなシーンは見ていられないのだという意思表示をするものですから、映画館中が“ちょっ”であふれかえってしまいます。そうしておかないと後で、“こりゃぁ(こいつは)あのスケベな映画をずっと見てたさよう”。などとからかわれるものですから、皆、まるで自分がキスしているみたいに、“ちょっ、ちょっ、”と言い続けたわけです。
 こんなわけで、ある日突然、先生方が、“ちょっ、”と言ってはいけません。“よう”は“ね”と言い換えましょう。“おれ”は止めて“僕”と言いましょう。“われ”は“君”と言い換えましょう。女の子は女の子らしく、=まぁ、どこが女の子らしいのか分かりませんが、“あちい”とか“おら”は止めて、ちゃんと“わたし”と言いましょう。と全校ぐるみで指導を開始したのです。
 しばらくの間は、生徒=“あの..ね、ぼ、僕はよう。先生=”ほらほら、“。生徒=”ちょっ“。と言った具合の授業が行われておりましたが、徐々に私たちは関東言葉風の稲取弁に変えられていきました。しかしそれは学校内のことで、校門を一歩出ると、”おらぁよう“、”わりゃぁよう“と伝統的稲取弁のバイリンガルのような使い分けをしておりました。でも、一日の生活で、寝ている時間と学校にいる時間が一番多くの時間を占めるような時代でしたから、先生方の強烈な指導もあって、次第に私たちは家に帰ってからも関東言葉風の稲取弁を話すように変貌していったわけです。しかしながら、一部の強固な意志を持つ者たちは同化せず、今でも”おらぁよう“とか、”わりゃぁよう“とか大声で怒鳴りながら伝統的な稲取弁を伝承しているわけです。
 さらに蛇足となりますが、この町では“べえ”と言う言葉が多く使われます。“行くべえ”、“よすべえ”、そうするべえ“の”べえ“です。ただこの”べえ“はこの町に限らず、静岡県東部では一般的に使われているようです。この”べえ“も、この地方の言葉を汚くしている一因だと思うのですが、私が高校のときに国語の先生が授業の中で、”君たちが良く使う“べえ”は、自己命令“べし”の音便である。すなわち、日本語の進化した形であるからして、大いに胸を張って使うべきである。いや、使うべえ。“とおっしゃっておりました。私は国語の授業が大嫌いで、いつも半分居眠りをしていましたから、先生がどこまで本気でそうおっしゃったのかは定かでありません。

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